墨子 巻五 非攻中

 

《非攻中》

子墨子言曰、古者王公大人、為政於國家者、情欲誉之審、賞罰之當、刑政之不過失。是故子墨子曰、古者有語、謀而不得、則以往知来、以見知隱。謀若此、可得而知矣。

今師徒唯毋興起、冬行恐寒、夏行恐暑、此不可以冬夏為者也。春則廃民耕稼樹藝、秋則廃民穫斂。今唯毋廃一時、則百姓飢寒凍餒而死者、不可勝數。今嘗計軍上、竹箭羽旄幄幕、甲盾撥劫、往而靡壞腑爛不反者、不可勝數、又與矛戟戈剣乗車、其往則碎折靡壞而不反者、不可勝數、與其牛馬肥而往、瘠而反、往死亡而不反者、不可勝數、與其涂道之脩遠、糧食輟絕而不継、百姓死者、不可勝數也、與其居處之不安、食飲之不時、飢飽之不節、百姓之道疾病而死者、不可勝數、喪師多不可勝數、喪師盡不可勝計、則是鬼神之喪其主後、亦不可勝數。

國家発政、奪民之用、廃民之利、若此甚衆、然而何為為之。曰、我貪伐勝之名、及得之利、故為之。子墨子言曰、計其所自勝、無所可用也。計其所得、反不如所喪者之多。今攻三里之城、七里之郭、攻此不用鋭、且無殺而徒得此然也。殺人多必數於萬、寡必數於千、然後三里之城、七里之郭、且可得也。今萬乗之國、虛數於千、不勝而入廣衍數於萬、不勝而辟。然則土地者、所有餘也、士民者、所不足也。今盡士民之死、厳下上之患、以争虛城、則是棄所不足、而重所有餘也。為政若此、非國之務者也。

飾攻戦者言曰、南則荊、呉之王、北則齊、晋之君、始封於天下之時、其土地之方、未至有數百里也、人徒之衆、未至有數十萬人也。以攻戦之故、土地之博至有數千里也、人徒之衆至有數百萬人。故攻戦而不可為也。子墨子言曰、雖四五國則得利焉、猶謂之非行道也。譬若医之薬人之有病者然。今有医於此、和合其祝薬之于天下之有病者而薬之、萬人食此、若医四五人得利焉、猶謂之非行薬也。故孝子不以食其親、忠臣不以食其君。古者封國於天下、尚者以耳之所聞、近者以目之所見、以攻戦亡者、不可勝數。何以知其然也。東方自莒之國者、其為國甚小、閒於大國之閒、不敬事於大、大國亦弗之従而愛利。是以東者越人夾削其壤地、西者齊人兼而有之。計莒之所以亡於齊越之間者、以是攻戦也。雖南者陳、蔡、其所以亡於呉越之閒者、亦以攻戦。雖北者且不一著何、其所以亡於燕、代、胡、貊之閒者、亦以攻戦也。是故子墨子言曰、古者王公大人、情欲得而悪失、欲安而悪危、故當攻戦而不可不非。

飾攻戦者之言曰、彼不能收用彼衆、是故亡。我能收用我衆、以此攻戦於天下、誰敢不賓服哉。子墨子言曰、子雖能收用子之衆、子豈若古者呉闔閭哉。古者呉闔閭教七年、奉甲執兵、奔三百里而舍焉、次注林、出於冥隘之径、戦於柏挙、中楚國而朝宋與及魯。至夫差之身、北而攻齊、舍於汶上、戦於艾陵、大敗齊人而葆之大山、東而攻越、濟三江五湖、而葆之會稽。九夷之國莫不賓服。於是退不能賞孤、施舍群萌、自恃其力、伐其功、誉其智、怠於教、遂築姑蘇之臺、七年不成。及若此、則呉有離罷之心。越王句踐視呉上下不相得、收其衆以復其讐、入北郭、徙大内、圍王宮而呉國以亡。昔者晋有六将軍、而智伯莫為強焉。計其土地之博、人徒之衆、欲以抗諸侯、以為英名。攻戦之速、故差論其爪牙之士、皆列其舟車之衆、以攻中行氏而有之。以其謀為既已足矣、又攻茲范氏而大敗之、并三家以為一家、而不止、又圍趙襄子於晋陽。及若此、則韓、魏亦相従而謀曰、古者有語、脣亡則歯寒。趙氏朝亡、我夕従之、趙氏夕、亡、我朝従之。詩曰魚水不務、陸将何及乎。是以三主之君、一心戮力辟門除道、奉甲興士、韓、魏自外、趙氏自内、撃智伯大敗之。是故子墨子言曰、古者有語曰、君子不鏡於水而鏡於人、鏡於水、見面之容、鏡於人、則知吉與凶。今以攻戦為利、則蓋嘗鑒之於智伯之事乎。此其為不吉而凶、既可得而知矣。

 

字典を使用するときに注意すべき文字

上、指事也。                               じょうきょう、ようす、の意あり。

且、又也。                                   また、の意あり。

中、通、誅                                   ちゅうする、の意あり。

鏡、鑑也                                       かんがみる、の意あり。

 

 

《非攻中》

子墨子の言いて曰く、古の王公大人の、(まつりごと)を國家に為す者は、(まこと)(ほまれ)(つまび)らかにするをなし、賞罰に(あた)り、刑政に過失をなさずを欲す。是の故に子墨子の曰く、古の者に(かたり)()り、(はか)りて(しかる)に得ざれば、則ち(おう)を以って(らい)を知り、(けん)を以って(おん)を知る。謀ること此の(ごと)きなれば、得て(すなは)ち知る()し。

今、師徒(しと)(ただ)興起(こうき)し、冬行は寒を恐れ、夏行は暑を恐れる、此れ冬夏を以って()()からずものなり。春は則ち民の耕稼(こうか)樹藝(じゅげい)を廃し、秋は則ち民の穫斂(かくれん)を廃す。今、(ただ)一時を廃すれば、則ち百姓は飢寒(きかん)凍餒(とうたい)して(しかる)に死する者、()へて(かぞ)()からず。今、(こころ)みに軍の(じょう)を計るに、竹箭(ちくせん)羽旄(うぼう)幄幕(あくばく)甲盾(こうじゅん)撥劫(はつふう)の、往きて()靡壞(みへい)腑爛(ふらん)して(かへ)らざるもの、()げて(かぞ)ふ可からず、又た(とも)矛戟(ぼうげき)戈剣(けんけん)乗車(じょうしゃ)、其の往きて則ち碎折(さいせつ)靡壞(ひかい)して()(かへ)らざるもの、()へて(かぞ)ふ可からず、(とも)に其の牛馬は肥え而して往き、瘠せて()(かへ)る、往きて死亡して(しかる)(かへ)らざるもの、()へて(かぞ)ふ可からず、(さら)に其の涂道(とどう)脩遠(しゅうえん)にして、糧食(りょうしょく)輟絶(てつぜつ)して而して継がず、百姓の死する者、()げて()ふべからず、(さら)に其の居處(きょしょ)は不安にして、食飲(しょくいん)は時ならず、飢飽(きほう)(せつ)あらず、百姓の道に疾病(しっぺい)して(しかる)に死する者、()げて(かぞ)ふべからず、師を(うしな)ふの多きこと()へて(かぞ)ふ可からず、師を(うしな)(つく)すこと()げて(かぞ)ふ可からず、則ち是の鬼神の其の主後(しゅご)(うしな)うこと、亦た()へて(かぞ)()からず。

國家の(せい)を発し、民の用を奪い、民の利を廃す、(かくのごと)き此れ(はなは)(おお)し、然らば(しかる)(なに)()れぞ之を為す。曰く、(おのれ)の勝の名を(ほこ)り、(さら)に利を得るを(むさぼ)る、故に之を為す。子墨子の言いて曰く、其の自ら勝つ所を計るに、用ふ()き所は無し。其の得る所を計るに、反りて(うしな)う所の多きに()かず。今、三里の城、七里の郭を攻む、此を攻めるに鋭を用ひず、()だ殺すこと無く而して()だ得むこと此れ然らむや。人を殺すこと多きは必ず萬を數へ、(すくな)きも必ず千を數ふ、然かる後に三里の城、七里の郭、()だ得る可し。今、萬乗の國に、虚は千を數へ、勝たずして而して廣衍(こうえん)に入るは萬を數へ、勝たずして而して(ひら)く。然らば則ち土地は、餘り有る所にして、士民は、足らざる所なり。今、士民の死を(つく)し、下の上への(かん)(げん)にし、以って虚城を争ふ、則ち是は足らざる所を棄てて、而して餘り有る所を(おも)むずるなり。(まつりごと)を為すの此の(ごと)きは、國の(つとめ)に非ざるものなり。

攻戦を(かざ)る者の言いて曰く、南は則ち荊、呉の王、北は則ち齊、晋の君、始めて天下に封ぜられし時、其の土地の(ほう)、未だ數百里は有るに至らず、人徒(じんと)(しゅう)、未だ數十萬人は有るに至らずなり。攻戦の故を以って、土地の(ひろ)きこと數千里は有るに至り、人徒(じんと)(しゅう)、數百萬人は有るに至れり。故に當に攻戦するも(しかる)に為す可からずとせむとす。子墨子の言いて曰く、四五國は則ち利を得ると(いへど)も、猶之を行道に非ずと謂ふ。(たと)へば医薬が人の病の有る者に(しか)するが(ごと)き。今、此に医有り、其の祝薬(しゅくやく)和合(わごう)し、天下の病の有る者に()きて而して之に(やく)し、萬人は之を食ふ、()し四五人に医して利を得るとも、猶之を行薬(こうやく)に非ずと謂はむ。故に孝子は以って其の親に食せしめず、忠臣は以って其の君に食せしめず。(いにしへ)の國を天下に封ぜり、(かみ)なる者は()の聞く所を以ってし、近き者は(もく)の見る所を以ってするに、攻戦を以って亡びし者は、(あへ)て數ふ可からず。何を以って其の(しか)るを知るや。東方に(おのず)から莒の國なるもの、其の(くに)()ること甚だ小、大國の(あひだ)(はさ)まれ、大いに敬事(けいじ)せず、大國も亦た之に従つて(しかる)に愛利せず。是を以って東は越人は其の壤地(じょうち)夾削(きょうさく)し、西は齊人は(あわ)せて(しかる)に之を有す。莒の之の齊越の間に亡びし所以(ゆえん)のものを計るに、是の攻戦を以ってなり。南は陳、蔡と(いへど)も、其の呉越の(かん)に亡びし所以(ゆえん)のものは、亦た攻戦を以ってす。北は(しょ)不一著何(ふとか)(いへど)も、其の燕、代、胡、貊の(かん)に亡びし所以(ゆえん)のものは、亦た攻戦を以ってなり。是の故に子墨子の言いて曰く、(いにしへ)の王公大人は、(じょう)を得るを欲して而して失ふを(にく)み、安きを欲して而して危きを(にく)む、故に攻戦の(ごと)きは而して()せざる()からず。

攻戦を(かざ)る者の言いて曰く、()()(しゅう)を収用すること能はず、是の故に亡ぶ。(おのれ)は能く(おのれ)(しゅう)を収用す、此を以って天下に攻戦せば、誰か敢て(ひん)(ふく)せざらむや。子墨子の言いて曰く、()は能く()(しゅう)を収用すと(いへど)も、子は豈に(いにしへ)()闔閭(こうりょ)()かむや。(いにしへ)の呉闔閭は教ふること七年、(こう)を奉じ兵を()り、三百里を(はし)りて而して(やど)り、注林(ちゅうりん)に次し、冥隘(めいあい)(みち)に出で、柏挙(はくきょ)に戦ひ、楚國を(ちゅう)し而して宋及び魯とを(ちょう)せしむ。夫差(ふさ)の身に至りて、北して而して齊を攻め、汶上(もんしょう)(やど)り、艾陵(がいりょう)に戦い、大いに齊人を敗りて而して之を大山に(ほう)せしめ、東して而して越を攻め、三江五湖を(わた)り、而して之を會稽(かいけい)(ほう)せしめむ。九夷の國の賓服(ひんふく)せざるは()し。是に於て退()きて()を賞し、群萌(ぐんぼう)施舍(ししゃ)すること能はず、自ら其の力を(たの)み、其の功に(ほこ)り、其の智を()め、(おしへ)(おこた)り、遂に姑蘇(こそ)(たい)を築き、七年成らず。此の(ごと)きに及んで、則ち呉に離罷(りひ)の心有り。越王句踐(こうせん)は呉の上下の(あい)()ざるを()て、其の(しゅう)を収めて以って其の(しゅう)を復し、北郭に入り、大内を(わた)り、王宮を(かこ)み而して呉國は以って亡ぶ。昔は晋に六将軍有り、而して智伯は(これ)より(きょう)()るは()し。其の土地は(ひろ)く、人徒(じんと)(おお)きを計り、以って諸侯に抗すを欲し、以って英名(えいめい)()さむ。攻戦は(すみや)かなり、故に其の爪牙(そうが)の士を差論(さろん)し、皆其の舟車の(しゅう)を列し、以って中行氏を攻めて而して之を(たも)つ。其の(はかりごと)を以って既已(すで)に足れりと為す、又た(ここ)(はん)氏を攻めて而して之を大いに敗り、三家を并せ以って一家と為し、而して止まず、又た(ちょう)襄子(じょうし)を晋陽に(かこ)む。此の若きに及び、則ち韓、魏も亦た(あひ)(したが)ひて而して(はか)りて曰く、(いにしへ)(ことば)は有り、(くちびる)は亡ぶれば則ち歯寒し。(ちょう)()(あした)に亡び、(われ)(ゆうべ)に之に従はむ、趙氏は(ゆうべ)に亡びて、我は(あした)に之に従はむ。詩に曰く、魚水(ぎょすい)(つと)めざれば、(りく)は将た何ぞ及ばむや。(これ)を以って三主の君、心を一にして力を(あは)せ門を(ひら)き道を(のぞ)き、(こう)を奉じ士を(おこ)し、韓、魏は(そと)自りし、趙氏は(うち)自りし、智伯を撃ち之を大いに敗る。(これ)の故に子墨子の言いて曰く、(いにしへ)(ことば)は有りて曰く、君子は水に(かむが)みずして而して人に(かむが)む、水に(かむが)みれば、(かほ)(かたち)を見、人に(かむが)みれば、則ち吉と凶とを知る。今、攻戦を以って利を為すは、則ち(なむ)(こころ)みに之を智伯の事に(かむが)みざるか。此れ其の不吉にして而して(きょう)()ること、既に得て而して知る()し。

 

 

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