墨子 巻五 非攻上

 

《非攻上》

今有一人、入人園圃、竊其桃李、衆聞則非之、上為政者得則罰之。此何也。以虧人自利也。至攘人犬豕雞豚者、其不義又甚入人園圃竊桃李。是何故也。以虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至入人欄、取人馬牛者、其不仁義又甚攘人犬豕雞豚。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至殺不辜人也、扡其衣裘、取戈剣者、其不義又甚入人欄取人馬牛。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚矣、罪益厚。當此、天下之君子皆知而非之、謂之不義。今至大為攻國、則弗知非、従而誉之、謂之義。此可謂知義與不義之別乎。

殺一人謂之不義、必有一死罪矣、若以此説往、殺十人十重不義、必有十死罪矣、殺百人百重不義、必有百死罪矣。當此、天下之君子皆知而非之、謂之不義。今至大為不義攻國、則弗知1非、従而誉之、謂之義、情不知其不義也、故書其言以遺後世。若知其不義也、夫奚説書其不義以遺後世哉。今有人於此、少見黒曰黒、多見黒曰白、則以此人不知白黒之辯矣、少嘗苦曰苦、多嘗苦曰甘、則必以此人為不知甘苦之辯矣。今小為非、則知而非之。大為非攻國、則不知非、従而誉之、謂之義。此可謂知義與不義之辯乎。是以知天下之君子也、辯義與不義之乱也。

 

字典を使用するときに注意すべき文字

又、猶更也。却也。                  さらに、なおさら、かえって、の意あり。

攘、又竊也                                   ぬすむ、の意あり。

奚、奚取焉                                   晋から唐代の用法で、なに、の意あり。

従、就也。自也。逐也。         つく、あとをおう、の意あり。

 

 

《非攻上》

今、一人有り、人が園圃(えんほ)に入り、其の桃李を(ぬす)む、衆は聞きて則ち之を非とす、上に(まつりごと)を為す者は得て則ち之を罰す。此れ何ぞや。人を(そこな)ひて自ら利するを以ってなり。人が犬豕(けんし)雞豚(けいとん)(ぬす)む者に至りては、其の不義(なおさ)ら人が園圃に入りて桃李を竊むより(はなはだ)し。是は何の故なるや。人を(そこな)ふこと(ますま)す多しを以って、其の不仁は(ここ)に甚し、罪は(ますま)す厚し。人が欄厩(らんきゅう)に入り、人の馬牛を取る者に至りては、其の仁義はならず(なおさ)ら人が犬豕雞豚を(ぬす)むより(はなはだ)し。此れ何の故なるや。其の人を(そこな)ふこと(ますま)す多しを以ってなり。(いやしく)も人を虧ふこと愈す多しは、其の不仁は(ここ)(はなはだ)く、罪は(ますま)す厚し。(つみ)あらずの人を殺し、其の衣裘(いきゅう)(うば)戈剣(じゅうけん)を取る者に至りては、其の不義(なおさ)ら人が欄厩(らんきゅう)に入り人の馬牛を取るよりも(はなはだ)し。此れ何の故なるや。其の人を(そこな)ふこと(ますま)す多しを以ってなり。(いやしく)も人を(そこな)ふこと(ますま)す多しは、其の不仁は(ここ)(はなはだ)しく、罪は(ますま)す厚し。此れに(あた)りて、天下の君子は皆知りて(しかる)に之を非とし、之を不義と謂う。今、大いに國を攻めるを為すに至りて、則ち()とするを知らず、従ひて而して之を誉め、之を義と謂う。此れ義と不義と之の別を知ると謂う()きか。

一人を殺さば之を不義と謂い、必ず一死の罪有りも、()し此の説を以って()かば、十人を殺さば不義は十重す、必ず十死の罪有り、百人を殺さば不義は百重し、必ず百死の罪有らむ。此れ(まさ)に、天下の君子は皆知りて()た之を()とし、之を不義と謂う。今、至りて大いに不義を為し國を攻むは、則ち()とするを知らず、()きて(しかる)に之を誉む、之を義と謂い、(おもう)に其の不義を知らず、故に其の(ことば)を書して以って後世に(のこ)す。()し其の不義を知らば、夫れ(なに)の説ありて其の不義を書し以って後世に(のこ)さむや。今、此に人有り、少く黒を見て曰く黒、多く黒を見て曰く白、則ち以って此の人は白黒の(わきまえ)を知らずなり、少く()(なめ)て曰く()、多く()(なめ)て曰く(かん)、則ち必ず此の人を以って甘苦(かんく)(わきまえ)を知らずと為さむ。今、小く非を為さば、則ち(しかる)に之を非とするを知る。(おお)いに國を攻むる非を為さば、則ち非とするを知らず、()きて(しかる)に之を誉め、之を義と謂う。此に義と不義との(わきまえ)を知ると謂う()きか。是を以って天下の君子、義と不義との(わきまえ)をなし之の乱れを知るなり。

 

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