墨子 巻九 非命中

 

《非命中》

子墨子言曰、凡出言談、由文学之為道也、則不可而不先立義法。若言而無義、譬猶立朝夕於員鈞之上也、則雖有巧工、必不能得正焉。然今天下之情偽、未可得而識也、故使言有三法。三法者何也。有本之者、有原之者、有用之者。於其本之也、考之天鬼之志、聖王之事、於其原之也、徵以先王之書、用之柰何、発而為刑。此言之三法也。

今天下之士君子或以命為亡、我所以知命之有與亡者、以衆人耳目之情、知有與亡。有聞之、有見之、謂之有、莫之聞、莫之見、謂之亡。然胡不嘗考之百姓之情。自古以及今、生民以来者、亦嘗見命之物、聞命之聲者乎。則未嘗有也。若以百姓為愚不肖、耳目之情不足因而為法、然則胡不嘗考之諸侯之傳言流語乎。自古以及今、生民以来者、亦嘗有聞命之聲、見命之體者乎。則未嘗有也。然胡不嘗考之聖王之事。古之聖王、挙孝子而勧之事親、尊賢良而勧之為善、発憲布令以教誨、明賞罰以勧沮。若此、則乱者可使治、而危者可使安矣。若以為不然、昔者、桀之所乱、湯治之、紂之所乱、武王治之。此世不渝而民不改、上變政而民易教、其在湯武則治、其在桀紂則乱、安危治乱、在上之発政也、則豈可謂有命哉。夫曰有命云者亦不然矣。

今夫有命者言曰、我非作之後世也、自昔三代有若言以傳流矣。今故先生對之。曰、夫有命者、不志昔也三代之聖善人與。意亡昔三代之暴不肖人也。何以知之。初之列士桀大夫、慎言知行、此上有以規諫其君長、下有以教順其百姓、故上得其君長之賞、下得其百姓之誉。列士桀大夫聲聞不廃、流傳至今、而天下皆曰其力也、必不能曰我見命焉。

是故昔者三代之暴王、不繆其耳目之淫、不慎其心志之辟、外之敺騁田獵畢弋、内沈於酒楽、不顧其國家百姓之政。繁為無用、暴逆百姓、使下不親其上、是故國為虛厲、身在刑僇之中。不肯曰、我罷不肖、我為刑政不善、必曰、我命故且亡。雖昔也三代之窮民、亦由此也。内之不能善事其親戚、外不能善事其君長、悪恭倹而好簡易、貪飲食而惰従事、衣食之財不足、使身至有饑寒凍餒之憂、必不能曰、我罷不肖、我従事不疾、必曰、我命固且窮。雖昔也三代之偽民、亦猶此也。繁飾有命、以教衆愚樸人久矣。聖王之患此也、故書之竹帛、琢之金石、於先王之書仲虺之告曰、我聞有夏、人矯天命、布命于下、帝式是悪、用闕師。此語夏王桀之執有命也、湯與仲虺共非之。先王之書太誓之言然曰、紂夷之居、而不用事上帝、棄闕其先神而不祀也、曰、我民有命、毋僇其務。天不亦棄縦而不葆。此言紂之執有命也、武王以太誓非也。有於三代不國有之曰、女毋崇天之有命也。命三不國亦言命之無也。於召公之執令於然、且、敬哉。無天命、惟予二人、而無造言、不自降天之哉得之。在於商、夏之詩書曰、命者暴王作之。且今天下之士君子、将欲辯是非利害之故、當天有命者、不可不疾非也。執有命者、此天下之厚害也、是故子墨子非也。

 

字典を使用するときに注意すべき文字

文、錯畫也。                      えがく、かく、の意あり。

学、學之爲言效也。           ことばをきく、の意あり。

原、始也。本也。               はじめ、もと、の意あり。

式、用也。度也。              もちいる、はかる、の意あり。

作、起也。又始也。           おこる、はじめる、の意あり。

 

 

《非命中》

子墨子の言いて曰く、凡そ言談を()だし、文と学に()るの(みち)()るや、則ち而って先づ()(ほう)を立てざる可からず。()し言にして而して義無くば、譬へば猶朝夕を員鈞(うんきん)の上に立つるがごとし、則ち巧工は有ると(いへど)も、必ず正を得ること能はず。然るに今、天下の情偽(じょうぎ)は、未だ得て而して()る可からず、故に有をして三法(さんほう)()使()む。三法とは何ぞや。之を本にする者有り、之を(もと)にする者有り、之を用ふる者有り。其の之を本とするに於いて、之を天鬼の()、聖王の事と考え、其の之を(もと)にするに於いて、(あらわ)すに先王の書を以って、之を用ふること柰何(いかん)、発して而して刑と為す。此れ之を三法と言う。

今、天下の士君子、或ひは(めい)を以って()しと為し、(おのれ)(めい)()りと()しとを知る所以(ゆえん)の者は、衆人の耳目(じもく)の情を以って、有りと亡しとを知る。之を聞くこと有り、之を見ること有る、之を有りと謂い、之を聞くこと()く、之を見ること()し、之を亡しと謂ふ。然らば(なむ)(こころみ)に之を百姓の情と考へざるや。(いにしへ)()り以って今に及ぶまで、生民より以来(いらい)、亦た(かつ)(めい)の物を見、(めい)の聲を聞きたる者や。則ち未だ(かつ)て有らざるなり。()し百姓を以って()不肖(ふしょう)にして、耳目(じもく)(じょう)は因りて而して(のり)と為すに足らずと為せば、然らば則ち(なむ)(こころみ)に之を諸侯の傳言(でんげん)流語(りゅうご)に考へざるや。(いにしへ)()り以って今に及び、生民より以来(いらい)、亦た(かつ)て命の聲を聞き、命の(たい)を見たる者は有るか。則ち未だ(かつ)て有らざるなり。然らば(なむ)(こころみ)に之を聖王の事に考へざるや。古の聖王、孝子を挙げて而して親に(つか)ふることを(すす)め、賢良を尊びて而して之に善を為すことを(すす)め、(のり)を発し令を()き以って(おしへ)(おし)へ、賞罰を明らかにするを以って勧沮(かんそ)す。此の(ごと)くならば、則ち乱は治め使()む可し、而して危は安から使()()し。()し以って然らずと為さば、昔は、桀の乱るる所、湯は之を治め、紂の乱るる所、武王は之を治む。此れ世は(かは)らず(しかる)に民は改まざるも、上は(まつりごと)()(しかる)に民の(おしへ)()ふ、其の湯武に在りては則ち治まり、其の桀紂に在りては則ち乱る、安危(あんき)治乱(ちらん)は、上の(まつりごと)を発するに在り、則ち()に命は有りと謂ふ()けむや。夫れ曰く、(めい)()りと云ふは亦た(しか)らず。

今、夫の命有る者の言いて曰く、(おのれ)は之を後世に()すに非ざるなり、昔、三代自り(かくのごと)(ことば)は有りて以って傳流(でんりゅう)す。今、故に先生の之に(こた)ひて、曰く、夫れ命有るは、昔の三代の聖善の人なるか、(おも)ふに()き昔の三代の(ぼう)不肖(ふしょう)の人なるや、()らざるなり。何を以ってこれを知るや。初に列士桀大夫は、(げん)(つつし)(こう)()り、此れ上には以って其の君長を規諫(きかん)する有り、下には以って其の百姓を教順(きょうじゅん)する有り、故に上には其の君長の(しょう)を得、下には其の百姓の(ほまれ)を得る。列士桀大夫、聲聞(せいぶん)を廃せず、流傳(りゅうでん)して今に至り、而して天下は皆其の力と曰ふ、必ず(おのれ)の命は見たりと曰ふこと(あた)はず。

是の故に昔の三代の暴王、其の耳目の(いん)(ただ)さず、其の(しん)()(へき)を慎まず、之を外にして敺騁(くてい)田獵(でんれん)畢弋(ひつよく)し、内は酒楽に(ふけ)りて、其の國家百姓は(まつりごと)(かへり)みず。(しげ)く無用を為し、百姓に暴逆(ぼうぎゃく)し、下をして其の上に親しまざら使め、是の故に國は虚厲(きょれい)と為り、身は(けいりく)の中に在る。(こう)ならずて曰く、(おのれ)()不肖(ふしょう)にして、(おのれ)は刑政を為すこと善からずは、必ず曰く、(おのれ)の命は(もと)より(すで)(ほろ)びむ。昔の三代の窮民(きゅうみん)(いへど)も、亦た()ほ此のごとし。之を内にして善く其の親戚に(つか)ふること能はず、外にして善く其の君長に(つか)へること(あた)はず、恭倹(きょうけん)(にく)(しかる)簡易(かんい)を好み、飲食を(むさぼ)()(こと)に従ふに(おこた)り、衣食の財は足らず、身をして饑寒(きかん)凍餒(とうたい)(うれひ)は有るに至ら使()め、必ず、(おのれ)()不肖(ふしょう)にして、(おのれ)(こと)に従ふこと()からずと曰ふこと(あた)はずして、必ず曰く、我の命は(もと)より(すで)(きゅう)せむと。昔の三代の偽民(ぎみん)(いへど)も、亦た猶此のごとし。(しげ)(めい)()るを飾り、以って衆愚(しゅうぐ)樸人(ぼくじん)を教ふること久し。

聖王の此を(うれ)ふるや、故に之を竹帛(ちくはく)に書し、金石(きんせき)(たく)し、先王の書、(ちゅうき)之告(しこう)に於いて曰く、我が有夏(ゆうか)の、人が天命を()め、命を下に()き、帝は(はか)りて是を(にく)み、(もち)て師を()くを聞く。此れ夏王桀は命有るを執り、湯と(ちゅうき)と共に之を()とするを語る。先王の書、太誓(たいせい)(ことば)も然り、曰く、紂は之を()して(きょ)し、而して上帝に(つか)ふることを(もち)ひず、其の先神を棄闕(きけつ)して而して(まつ)らず、曰く、(おのれ)の民に命は有り、其に(りく)くは()くを(つと)む。天も亦た棄縦(きしょう)せずして而して(ほう)せず。此れ紂は命有るを執るや、武王は太誓(たいせい)を以って之を()とするを言ふ。有りて三代の國に(これ)()らずて、曰く、(なんじ)は天の命有るを(とうと)ぶこと()れ。命三(めいさん)不國(ふこく)も亦た(めい)は無きこと言うなり。召公の(れい)()るに於いて()た然り、()つ、(つつ)しまむや。天命は無し、()()の二人、而して造るは無し、言く、()りて天は之を(くだ)すにあらずて之を得る。商、夏の詩書に在りて曰く、(めい)は暴王の之を(はじめ)とす。()た今、天下の士君子、将に是非(ぜひ)利害(りがい)(ゆえ)(わきまえ)むと欲せば、(まさ)に天に(めい)()るは、(つと)めて()とせざる()からずとせむ。命有るを()るは、此れ天下の厚害(こうがい)なり、是の故に子墨子は()とするなり。

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