墨子 巻九 非儒下

 

《非儒下》

儒者曰、親親有術、尊賢有等。言親疏尊卑之異也。其禮曰、喪父母三年、妻、後子三年、伯父叔父弟兄庶子其、戚族人五月。若以親疏為歳月之數、則親者多而疏者少矣、是妻後子與父同也。若以尊卑為歳月數、則是尊其妻子與父母同、而親伯父宗兄而卑子也、逆孰大焉。其親死、列尸弗斂、登屋窺井、挑鼠穴、探滌器、而求其人矣。以為實在則贛愚甚矣、如其亡也必求焉、偽亦大矣。取妻、身迎、袨端為僕、秉轡授綏、如仰厳親、昏禮威儀、如承祭祀。顛覆上下、悖逆父母、下則妻子、妻子上侵事親、若此可謂孝乎。儒者、迎妻、妻之奉祭祀、子将守宗廟、故重之。應之曰、此誣言也、其宗兄守其先宗廟數十年、死喪之其、兄弟之妻奉其先之祭祀弗散、則喪妻子三年、必非以守奉祭祀也。夫憂妻子以大負、有曰所以重親也、為欲厚所至私、軽所至重、豈非大姦也哉。

有強執有命以説議曰、壽夭貧富、安危治乱、固有天命、不可損益。窮達賞罰幸否有極、人之知力、不能為焉。群吏信之、則怠於分職、庶人信之、則怠於従事。吏不治則乱、農事緩則貧、貧且乱政之本、而儒者以為道教、是賊天下之人者也。

且夫繁飾禮楽以淫人、久喪偽哀以謾親、立命緩貧而高浩居、倍本棄事而安怠傲、貪於飲食、惰於作務、陷於飢寒、危於凍餒、無以違之。是若人気、鼠蔵、而羝羊視、賁彘起。君子笑之。怒曰、散人。焉知良儒。夫夏乞麥禾、五穀既收、大喪是隨、子姓皆従、得厭飲食、畢治數喪、足以至矣。因人之家翠、以為、恃人之野以為尊、富人有喪、乃大説、喜曰、此衣食之端也。

儒者曰、君子必服古言然後仁。應之曰、所謂古之言服者、皆嘗新矣、而古人言之、服之、則非君子也。然則必服非君子之服、言非君子之言、而後仁乎。

又曰、君子循而不作。應之曰、古者羿作弓、伃作甲、奚仲作車、巧垂作舟、然則今之鮑函車匠皆君子也、而羿、伃、奚仲、巧垂皆小人邪。且其所循人必或作之、然則其所循皆小人道也。

又曰、君子勝不逐奔、揜函弗射、施則助之胥車。應之曰、若皆仁人也、則無説而相與。仁人以其取舍是非之理相告、無故従有故也、弗知従有知也、無辭必服、見善必遷、何故相。若両暴交争、其勝者欲不逐奔、掩函弗射、施則助之胥車、雖盡能猶且不得為君子也。意暴殘之國也、聖将為世除害、興師誅罰、勝将因用儒術令士卒曰毋逐奔、揜函勿射、施則助之胥車。暴乱之人也得活、天下害不除、是為群殘父母、而深賤世也、不義莫大焉。

又曰、君子若鍾、撃之則鳴、弗撃不鳴。應之曰、夫仁人事上竭忠、事親得孝、務善則美、有過則諫、此為人臣之道也。今撃之則鳴、弗撃不鳴、隱知豫力、恬漠待問而後對、雖有君親之大利、弗問不言、若将有大寇乱、盜賊将作、若機辟将発也、他人不知、己獨知之、雖其君親皆在、不問不言。是夫大乱之賊也。以是為人臣不忠、為子不孝、事兄不弟、交、遇人不貞良。夫執後不言之朝物、見利使己雖恐後言、君若言而未有利焉、則高拱下視、會噎為深、曰、唯其未之学也。用誰急、遺行遠矣。夫一道術学業仁義者、皆大以治人、小以任官、遠施周偏、近以脩身、不義不處、非理不行、務興天下之利、曲直周旋、利則止、此君子之道也。以所聞孔丘之行、則本與此相反謬也。

齊景公問晏子曰、孔子為人何如。晏子不對、公又復問、不對。景公曰、以孔丘語寡人者衆矣、俱以賢人也。今寡人問之、而子不對、何也。晏子對曰、嬰不肖、不足以知賢人。雖然、嬰聞所謂賢人者、入人之國必務合其君臣之親、而弭其上下之怨。孔丘之荊、知白公之謀、而奉之以石乞、君身幾滅、而白公僇。嬰聞賢人得上不虛、得下不危、言聴於君必利人、教行下必於上、是以言明而易知也、行明而易従也、行義可明乎民、謀慮可通乎君臣。今孔丘深慮同謀以奉賊、労思盡知以行邪、勧下乱上、教臣殺君、非賢人之行也、入人之國而與人之賊、非義之類也、知人不忠、趣之為乱、非仁義之也。逃人而後謀、避人而後言、行義不可明於民、謀慮不可通於君臣、嬰不知孔丘之有異於白公也、是以不對。景公曰、嗚乎。貺寡人者衆矣、非夫子、則吾終身不知孔丘之與白公同也。

孔丘之齊見景公、景公説、欲封之以尼谿、以告晏子。晏子曰、不可夫儒浩居而自順者也、不可以教下、好楽而淫人、不可使親治、立命而怠事、不可使守職、宗喪循哀、不可使慈民、機服勉容、不可使導衆。孔丘盛容脩飾以蠱世、弦歌鼓舞以聚徒、繁登降之禮以示儀、務趨翔之節以観衆、博学不可使議世、労思不可以補民、壽不能盡其学、當年不能行其禮、積財不能贍其楽、繁飾邪術以営世君、盛為聲楽以淫遇民、其道不可以期世、其学不可以導衆。今君封之、以利齊俗、非所以導國先衆。公曰、善。於是厚其禮、留其封、敬見而不問其道。孔丘乃恚、怒於景公與晏子、乃樹鴟夷子皮於田常之門、告南郭惠子以所欲為、歸於魯。有頃、閒齊将伐魯、告子貢曰、賜乎。挙大事於今之時矣。乃遣子貢之齊、因南郭惠子以見田常、勧之伐呉、以教高、國、鮑、晏、使毋得害田常之乱、勧越伐呉。三年之内、齊、呉破國之難、伏尸以言術數。孔丘之誅也。

孔丘為魯司寇、舍公家而奉季孫。季孫相魯君而走、季孫與邑人争門関、決植。

孔丘窮於蔡陳之閒、藜羹不糝、十日、子路為享豚、孔丘不問肉之所由来而食、號人衣以酤酒、孔丘不問酒之所由来而飲。哀公迎孔子、席不端弗坐、割不正弗食、子路進、請曰、何其與陳、蔡反也。孔丘曰、来。吾語女、曩與女為苟生、今與女為苟義。夫飢約則不辭妄取、以活身、贏飽則偽行以自飾、汙邪詐偽、孰大於此。

孔丘與其門弟子閒坐、曰、夫舜見瞽叟孰然、此時天下圾乎。周公旦非其人也邪。何為舍其家室而託寓也。孔丘所行、心術所至也。其徒屬弟子皆効孔丘。子貢、季路輔孔悝乱乎衛、陽貨乱乎齊、佛肸以中牟叛、桼雕刑殘、莫大焉。夫為弟子後生、其師、必脩其言、法其行、力不足、知弗及而後已。今孔丘之行如此、儒士則可以疑矣。

 

字典を使用するときに注意すべき文字

作、起也。又始也。           おこる、はじめる、の意あり。

趣、疾也。趍也。              はやし、はせむかう、うながす、の意あり。

 

 

《非儒下》

儒者の曰く、(しん)(した)しむに(すべ)は有り、賢を尊ぶに等は有り。親疏(しんそ)尊卑(そんぴ)は異を言うなり。其の禮に曰く、喪は父母には三年、妻、後子(こうし)には三年、伯父叔父弟兄庶子には()戚族(せきぞく)の人には五月(ごつき)と。若し親疏(しんそ)を以って歳月の數と為すは、則ち親なる者は多くして而して疏なる者は少くす、是は妻と後子(こうし)とは父と同じきなり。若し尊卑を以って歳月の數と為すは、則ち是は其の妻子を尊ぶこと父母と同じくし、而して伯父宗兄の親しむは卑子の(ごと)きなり、(さかさま)にして(いず)れか(これ)より大ならむ。其の親が死すれば、(かばね)(れっ)して(おさ)めず、(おく)に登り井を(うかが)ひ、鼠穴を(うが)ち、滌器(できき)(さぐ)りて、而して其の人を求む。以って(まこと)に在りと為さば則ち贛愚(とうぐ)なること甚し、其の亡きの如くや必ず(これ)を求めば、(いつわり)も亦た大なり。

妻を取り、身迎(しんげい)袨端(げんたん)して僕と為し、()を秉り(すい)を授け、厳親(げんしん)を迎えるが如し、昏禮(こんれい)の威儀は、祭祀を承くるが如し。上下を顛覆(てんぷく)し、父母に悖逆(はいぎゃく)す、下は妻子に(そく)し、妻子は親に()するを上侵す、此の(ごと)くを孝と謂う可べけむや。儒者は、妻を迎へ、妻と祭祀を奉じ、子は将に宗廟を守る、故に之を(おも)むず。之を應へて曰く、此れ誣言(ふげん)なり、其の宗兄は其の(せん)宗廟(そうびょう)を守ること數十年、死すれば其を(うしな)ひ、兄弟の妻は其の先の祭祀の散じること()からむを奉ずも、(しかる)に妻子の喪は三年、必ず以って祭祀を奉ずるを守るに非ず。夫れ妻子を(うれ)うは以って大いに(るい)を負へるは()た曰く以って親を重むずる所なり、至私(しし)する所を厚するを欲するが(ため)にして、至重(しちょう)する所を(かる)むずる、豈に大姦(たいかん)に非ずなりや。

()りて()ひて有命を執りて以って議を説いて曰く、壽夭(じゅよう)貧富(ひんぷ)安危(あんき)治乱(ちらん)は、(もと)より天命は有る、損益す()からず。窮達(きゅうたつ)賞罰(しょうばつ)幸否(こうひ)の極りは有り、人の知力の、為すは(あた)はずなり。群吏が之を信ずれば、則ち職の(ぶん)を怠り、庶人が之を信ずれば、則ち事に従うを怠る。吏が治めずは則ち乱れ、農事が(かん)なれば則ち(ひん)、貧にして且つ乱るは(まつりごと)の本なり、(しかる)に儒者は以って教えの道と為す、是は天下の人を(そこな)ふ者なり。

()た夫れ繁飾(はんしょく)禮楽(れいらく)を以って人を(いん)し、久喪(きゅうそう)偽哀(ぎあい)を以って親を(あなど)り、立命(りつめい)緩貧(かんひん)にして而して高く浩居(こうきょ)し、本に(そむ)き事を()て而して怠傲(たいごう)(やす)むじ、飲食を(むさぼ)り、作務を(おこた)り、飢寒に(おちい)り、凍餒(とうだい)(あやう)きも、以って之を(たが)えること無し。是は人気の(ごと)く、鼸鼠(けんそ)のごとく蔵し、而して羝羊(ていよう)のごとく視、(ふんてい)のごとく起つ。君子は之を笑ふ。怒りて曰く、人は()る。(いずく)むぞ良儒を知らむ。夫れ夏は麥禾(ばくか)を乞い、五穀は既に收むれば、大喪は是に隨ひ、子姓の皆は従い、飲食に()くるを得る、(ことごと)數喪(ずうも)を治めれば、以って至ってするに足る。人の家に因りて(すい)となし、為すを以って、人は野を(たの)みて以って尊と為す、富人に喪が有れば、乃ち大いに説き、()して曰く、此れ衣食の(たん)なり。

儒者の曰く、君子は必ず(いにしえ)の言に服し然る後に仁なり。之に應へて曰く、(いにしえ)の言に服すと謂う所、皆()って(あらた)なり、而して(いにしえ)の人の之を言うは、之に服し、則ち君子に非ずなり。然らば則ち必ず(ふく)すは君子の服すに非ず、言は君子の言に非ず、(しか)るに後に仁なるか。

又た曰く、君子は(したが)ひて(しかる)(はじめ)ず。之に應へて曰く、(いにしえ)羿(げい)は弓を作り、(ちょ)は甲を作り、奚仲(けいちゅう)は車を作り、巧垂(こうすい)は舟を作る、然らば則ち(いま)之の鮑函(ほうかん)車匠(しゃしょう)は皆君子なるや、而るに羿、伃、奚仲、巧垂は皆小人なるか。()た其の(したが)ふ所は人が必ず之を(はじめ)るに()る、然らば則ち其の(したが)う所は皆小人の道なり。

又た曰く、君子は勝つも(はし)るを(おわ)わず、揜函(えんく)を射たず、(ほどこ)し則ち之の胥車(しょしゃ)を助く。之に應へて曰く、若し皆が仁の人ならば、則ち説くこと無く而して(あい)(とも)にす。仁なる人は其の取舍(しゅしゃ)是非(ぜひ)の理を以って(あい)()げ、(ゆえ)が無ければ故が有るに従い、知らざれば知るは有るに従う、()が無ければ必ず服し、善を見れば必ず遷る、何の故に相せむ。若し両暴(りょうぼう)(こもごも)に争ひ、其の勝つ者は奔るを逐わずを欲し、掩函(えんく)を射たず、施しは則ち之の胥車(しょしゃ)を助く、能く盡くすと雖ども(なお)()つ君子は()すを得ず。(おも)ふに暴殘の國にして、聖が将に世の為に害を除き、師を(おこ)して誅罰し、勝ちて将に儒術を用いるに因りて士卒に令して曰く奔るを逐ふ()かれ、揜函(えんく)は射る()かれ、施しは則ち之の胥車(しょしゃ)を助く。暴乱の人や()くるを得、天下の害は(のぞ)かず、是は(むれ)の為に父母を()て、而して深く世に(せん)するなり、不義の(これ)より(おおい)なるは莫し。

又た曰く、君子は(かね)の若く、之を撃てば則ち鳴り、撃ずば鳴らず。之に應へて曰く、夫れ仁人は上に(つか)へて忠を(つく)し、親に事へて孝を得る、善に(つと)めれば則ち美とし、(あやま)ち有れば則ち(いさ)む、此れ人の臣たる道を為すや。今、之を撃たば則ち鳴り、撃ずば鳴らず、知を隠し力を()き、恬漠(てんばく)して問うを待ち而して後に對ふ、君親(くんしん)に大利は有りと(いへど)も、問はざれば言はずは、将に大き寇乱(こうらん)有りて、盜賊の将に(はじめ)むとするが(ごと)き、機辟(きへき)の将に発せむとするが(ごと)きなり、他人は知らず、己の獨り之を知り、其の君親は皆在ありと(いへど)も、問はざれば言はず。是は夫れ大乱の賊なり。是を以って人臣と為りて忠ならず、子と為りて孝ならず、兄に(つか)へて弟ならず、(こもごも)、人を偶すること貞良(ていりょう)ならず。夫れ後を執りて之を(ちょう)に物を言はず、利使を見て己の後言を恐れると(いへど)も、君に(かくのごと)く言ひて而して未だ利有らざれば、則ち高拱(こうきょう)下視(かし)し、會噎(かいえつ)(しん)を為す、曰く、(ただ)其れ未だ之を学ばずなり。用を誰か急し、遺行(いこう)は遠しなり。

夫れ()道術(どうじゅつ)学業(がくぎょう)仁義(じんぎ)は、皆(おおい)にして以って人を治め、小にして以って官に任じ、遠くは周偏(しゅうへん)に施し、近くは以って身を(おさ)む、義ならずば()らず、理(あら)ずば(おこ)なはず、天下の利を(おこ)さむを務め、曲直(きょくちょく)周旋(しゅうせん)は、利ならざれば則ち止む、此は君子の道なり。聞く所の孔丘の行を以ってすれば、則ち本は此と(あい)反謬(はんびゅう)するなり。

齊景公の晏子に問いて曰く、孔子は人と為りて何如(いかむ)。晏子は對へず、公は又た復び問うも、對へず。景公の曰く、孔丘を以って寡人(こうじん)に語る者は(おお)し、俱に以って賢人なり。今、寡人に之を問ふも、而して子は對へず、何ぞや。晏子の對へて曰く、(えい)不肖(ふしょう)、以って賢人を知るを足らず。然りと(いへど)も、嬰の聞く謂ふ所の賢人は、人の國に入れば必ず其の君臣の(したしみ)に合わせて務めば、而して其の上下の(うらみ)()む。孔丘の荊に()くに、白公の謀を知り、而して之を奉し石乞(せきこつ)を以ってす、君身は(ほとん)ど滅び、而して白公は(りく)せらる。嬰の聞く賢人を上に得れば虚しからず、下に得れば危からず、言を君に聴き必ず人を利し、下に行を教えれば必ず上にあらむ、是は言明(げんめい)を以って而して知り易しなり、行の明かにして而して従ひ易し、行の義は民に明かなる()し、謀慮(ぼうりょ)の君臣に通ず可し。今、孔丘の深慮(しんりょ)同謀(どうぼう)を以って賊に奉じ、労思(ろうし)盡知(じんち)を以って邪を行う、下に勧めて上を乱し、臣に教えて君を殺し、賢人の行に非ずなり、人の國に入れば而して人の賊に()し、義の類に非ずなり、人の不忠を知りて、之を(うなが)して乱を為す、仁義に非ずなり。人を逃がれ而して後に謀り、人を避けて而して後に言ひ、行の義は民に明かなる()からず、謀慮(ぼうりょ)の君臣に通じ可からず、嬰の孔丘の白公に異なること有るを知らず、是を以って對へず。景公の曰く、嗚乎(おお)。寡人に(たま)ふる者は(おお)し、夫子に非らざれば、則ち吾は終身(しゅうしん)、孔丘の白公と同じきを知らざるなり。

孔丘は齊に()き景公に(まみ)えむ、景公は(かたり)て、之を封ずるに尼谿(じけい)を以ってせむを欲す、以って晏子に告ぐ。晏子の曰く、不可なり、夫れ儒は浩居(こうきょ)し而して自ら(したが)う者なり、以って下を教える可からず、楽を好み而して人を淫す、親しく治め使()()からず、命を立て而して事を怠たり、職を守ら使()()からず、喪を(とうと)び哀に(した)ふ、民を()使()()からず、機服(きふく)勉容(べんよう)、衆を(みちび)使()()からず。孔丘は盛容(せいよう)脩飾(しゅうしょく)して以って世を()し、弦歌(げんか)鼓舞(こぶ)を以って徒を(あつ)め、登降の禮を繁くして以って儀を示し、趨翔(すうしょう)の節を務めて以って衆に(しめ)す、博学なるも世を議せ使む可からず、労思(ろうし)するも以って民を補ふ可からず、累壽(るいじゅ)も其の学を盡すに(あた)はず、當年(とうねん)の行の其の禮を行うも能はず、積財の其の楽を贍すも能はず、邪術(じゃじゅ)を繁飾して以って世君を営す、盛むに聲楽を為し以って遇民(ぐみん)を淫す、其の道の以って世の期す可からず、其の学の以って衆を導びく可からず。今、君が之を封し、以って齊の俗を利せしめ、以って國を導き衆に先だつ所に非ず。公の曰く、善かな。是に於いて其の禮に厚くして、其の封を留め、敬見すれども而して其の道を問わず。孔丘は乃ち(いか)り、景公と晏子に()し、乃ち鴟夷(しい)子皮(しひ)を田常の門に()て、南郭惠子に告げ以って為さむと欲す所、魯に歸へる。(しばらく)有りて、齊の将に魯を伐むとするを(うかが)ひ、子貢に告げて曰く、賜乎(しか)。大事を挙げるに今の時に於てす。乃ち子貢を(つか)して齊に()き、南郭惠子に因りて以って田常に(まみ)え、之を勧め呉を()つ、以って高、國、鮑、晏に教え、田常の乱を害することを得る()から使()む、越を勧め呉を()つ。三年の内、齊、呉は破國の難あり、伏尸(ふくし)は以って言は術數(じゅつすう)せむや。孔丘の(せめ)なり。

孔丘は魯の司寇と為り、公家を()て而して季孫を奉じる。季孫の魯君の相にして而して走る、季孫の邑人と門関(もんせき)を争ふに、(しょく)を決する。

孔丘は蔡陳の閒に窮し、藜羹(れいこう)(さん)せざること、十日、子路、(ため)に豚を(きょう)する、孔丘は肉の由りて来る所を問わずして而に()らふ、人の衣を(はぎ)ぎて以って酒を()、孔丘は酒の由りて来る所を問はずして而に飲む。哀公の孔子を迎えしに、席の(ただ)しからずば(すわ)らず、割の正しからずば()らはず、子路は進みて、請ひて曰く、何ぞ其れ(ちん)(さい)と反せるや。孔丘の曰く、来れ。吾は(なんじ)に語らむ、(さき)(なんじ)苟生(こうせい)を為し、今、(なんじ)苟義(こうぎ)を為す。夫れ飢約(きやく)なれば則ち(みだ)りに取りて()をせず、以って身を活かす、贏飽(えいほう)なれば則ち行を偽りて以って自らを飾り、汙邪(かんじゃ)詐偽(さぎ)、孰れか此れより大ならむ。

孔丘は其の門弟子と閒坐(かんざ)し、曰く、夫れ舜の瞽叟(こそう)を見ること(いず)れぞ然り、此の時天下は圾乎(ぎふこ)たり。周公旦は其れ人に非ざるなりか。(なん)ぞ為して其の家室を()て而して託寓(たくぐう)せるや。孔丘の行う所、心術の至る所。其の徒屬(としょく)弟子(でし)は皆孔丘に(なら)へり。子貢、季路の(こかい)(たす)け衛を乱し、陽貨(ようか)は齊を乱し、(ぶつきつ)中牟(ちゅうぼう)を以って(そむ)き、桼雕(しつちょう)刑殘(けいざん)せらる、(これ)より大なるは莫し。夫れ弟子の後生と為りて、其の師とするや、必ず其の言を(おさ)め、其の行を(のり)とし、力の足らず、知の及ばずして而して後に()む。今、孔丘の(おこない)は如くの此し、儒士は則ち以って疑う()べし。

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