墨子 巻七 天志上

 

《天志上》

子墨子言曰、今天下之士君子、知小而不知大。何以知之。以其處家者知之。若處家得罪於家長、猶有隣家所避逃之。然且親戚兄弟所知識、共相儆戒、皆曰、不可不戒矣。不可不慎矣。悪有處家而得罪於家長、而可為也。非獨處家者為然、雖處國亦然。處國得罪於國君、猶有隣國所避逃之、然且親戚兄弟所知識、共相儆戒皆曰、不可不戒矣。不可不慎矣。誰亦有處國得罪於國君、而可為也。此有所避逃之者也、相儆戒猶若此其厚、況無所避逃之者、相儆戒豈不愈厚、然後可哉。且語言有之曰、焉而晏日焉而得罪、将悪避逃之。曰無所避逃之。夫天不可為林谷幽門無人、明必見之。然而天下之士君子之於天也、忽然不知以相儆戒、此我所以知天下士君子知小而不知大也。

然則天亦何欲何悪。天欲義而悪不義。然則率天下之百姓以従事於義、則我乃為天之所欲也。我為天之所欲、天亦為我所欲。然則我何欲何悪。我欲福禄而悪禍祟。若我不為天之所欲、而為天之所不欲、然則我率天下之百姓、以従事於禍祟中也。然則何以知天之欲義而悪不義。曰天下有義則生、無義則死、有義則富、無義則貧、有義則治、無義則乱。然則天欲其生而悪其死、欲其富而悪其貧、欲其治而悪其乱、此我所以知天欲義而悪不義也。

曰且夫義者政也、無従下之政上、必従上之政下。是故庶人竭力従事、未得次己而為政、有士政之、士竭力従事、未得次己而為政、有将軍大夫政之、将軍大夫竭力従事、未得次己而為政、有三公諸侯政之、三公諸侯竭力聴治、未得次己而為政、有天子政之、天子未得次己而為政、有天政之。天子為政於三公、諸侯、士、庶人、天下之士君子固明知、天之為政於天子、天下百姓未得之明知也。故昔三代聖王禹湯文武、欲以天之為政於天子、明説天下之百姓、故莫不犓牛羊、豢犬彘、潔為粢盛酒醴、以祭祀上帝鬼神、而求祈福於天。我未嘗聞天下之所求祈福於天子者也、我所以知天之為政於天子者也。

故天子者、天下之窮貴也、天下之窮富也、故於富且貴者、當天意而不可不順、順天意者、兼相愛、交相利、必得賞。反天意者、別相悪、交相賊、必得罰。然則是誰順天意而得賞者。誰反天意而得罰者。子墨子言曰、昔三代聖王禹湯文武、此順天意而得賞也。昔三代之暴王桀紂幽厲、此反天意而得罰者也。然則禹湯文武其得賞何以也。子墨子言曰、其事上尊天、中事鬼神、下愛人、故天意曰、此之我所愛、兼而愛之、我所利、兼而利之。愛人者此為博焉、利人者此為厚焉。故使貴為天子、富有天下、業萬世子孫、傳稱其善、方施天下、至今稱之、謂之聖王。然則桀紂幽厲得其罰何以也。子墨子言曰、其事上詬天、中詬鬼、下賊人、故天意曰、此之我所愛、別而悪之、我所利、交而賊之。悪人者此為之博也、賊人者此為之厚也。故使不得終其壽、不歿其世、至今毀之、謂之暴王。

然則何以知天之愛天下之百姓。以其兼而明之。何以知其兼而明之。以其兼而有之。何以知其兼而有之。以其兼而食焉。何以知其兼而食焉。四海之内、粒食之民、莫不犓牛羊、豢犬彘、潔為粢盛酒醴、以祭祀於上帝鬼神、天有邑人、何用弗愛也。且吾言殺一不辜者必有一不祥。殺不辜者誰也。則人也。予之不祥者誰也。則天也。若以天為不愛天下之百姓、則何故以人與人相殺、而天予之不祥。此我所以知天之愛天下之百姓也。

順天意者、義政也。反天意者、力政也。然義政将柰何哉。子墨子言曰、處大國不攻小國、處大家不小家、強者不劫弱、貴者不傲賤、多詐者不欺愚。此必上利於天、中利於鬼、下利於人、三利無所不利、故挙天下美名加之、謂之聖王、力政者則與此異、言非此、行反此、猶倖馳也。處大國攻小國、處大家小家、強者劫弱、貴者傲賤、多詐欺愚。此上不利於天、中不利於鬼、下不利於人。三不利無所利、故挙天下悪名加之、謂之暴王。

子墨子言曰、我有天志、譬若輪人之有規、匠人之有矩、輪匠執其規矩、以度天下之方圓、曰、中者是也、不中者非也。今天下之士君子之書、不可勝載、言語不可盡計、上説諸侯、下説列士、其於仁義則大相遠也。何以知之。曰我得天下之明法以度之。

 

字典を使用するときに注意すべき文字

且、又又也。又將也。        さらに、また、の意あり。

政、正也。                         ただす、の意あり。

次、舍也。又處也。           おく、すえる、の意あり。

固、固之言如故也              もとより、ゆえに、の意あり。

方、又今也。                      いま、の意あり。

 

《天志上》

子墨子の言いて曰く、今、天下の士君子は、小を知りて(しかる)に大を知らず。(なん)を以って之を知る。其の家に()る者を以って之を知る。()し家に處りて罪を家長に得るも、(なお)隣家にこれを避逃(ひとう)する所は有り。然れども(まさ)に親戚兄弟の知識する所は、共に(あい)儆戒(けいかい)して、皆は曰く、(いまし)めざる可からず。(つつし)まざる可からず。(いずく)むぞ家に()りて而して罪を家長に得て、而して為すべきもの有らむや。獨り家に()る者のみ(しか)りと為すに非ず、國に()ると(いへど)も亦た然り。國に處り罪を國君(こくくん)に得るも、(なお)隣國にこれを避逃する所は有り、然れども(まさ)に親戚兄弟の知識する所と、共に(あい)儆戒(かいかい)して皆は曰く、戒めざる可からず。慎まざる可からず。誰か亦た國に()り罪を國君(こくくん)に得るも、(しかる)に為す可きもの有らむや。此れ之を避逃する所の者有るも、相儆戒(かいかい)すること(なお)此の(かくのごと)き其は厚し、況むや之を避逃(ひとう)する所の者の無ければ、相儆戒すること豈に(ゆうゆう)にして厚し、然る後に可ならずや。且つ(ことば)に之が有りて言いて曰く、(まさ)に而して晏日(あんじつ)にして(まさ)に而して罪を得れば、将に之を避逃(ひとう)するを(にく)まむ。曰く之を避逃する所は無し。夫れ天は林谷(りんこく)幽門(ゆうもん)に人は無しと為す可からず、明は必ず之を見る。然り而して天下の士君子の天に於けるや、忽然(こつぜん)として以って(あい)儆戒(かいかい)するを知らず、此れ(おのれ)の、天下の士君子は小を知りて(しかる)に大を知らざるを知る所以(ゆえん)なり。

然らば則ち天は亦た何をか欲し何をか(にく)むか。天は義を欲し(しかる)に不義を(にく)む。然らば則ち天下の百姓を率いて以って義に従事せば、則ち(おのれ)は乃ち天の欲する所を為すなり。(おのれ)は天の欲する所を為せば、天も亦た(おのれ)の欲する所を為す。然らば則ち(おのれ)は何をか欲し何をか(にく)むか。(おのれ)福禄(ふくろく)を欲し(しかる)禍祟(かすい)(にく)まむ。若し(おのれ)の天の欲する所を為さず、(しかる)に天の欲せざる所を為さば、然らば則ち我は天下の百姓を率い、以って禍祟(かすい)の中に従事するなり。然らば則ち何を以って天は義を欲して(しかる)に不義を(にく)むを知るや。曰く、天下に義有らば則ち生き、義無くば則ち死す、義有らば則ち()み、義無くば則ち(ひん)し、義有らば則ち(おさま)り、義無くば則ち(みだ)る。然らば則ち天は其の生を欲し(しかる)に其の死を(にく)み、其の()を欲し(しかる)に其の(ひん)(にく)み、其の()を欲し(しかる)に其の(らん)(にく)む、此れ我の天が義を欲し(しかる)に不義を(にく)むを欲するを知る所以(ゆえん)なり。

曰く(さら)に夫れ義は(まつりごと)なり、下()り上を(ただ)すこと無く、必ず上()り下を(ただ)す。是の故に庶人は力を(つく)し事に従うも、未だ(おのれ)()(ただ)すことを為すを得ず、士有りて之を(ただ)し、士は力を(つく)し事に従うも、未だ(おのれ)()(しかる)(ただ)すことを為すを得ず、将軍大夫有りて之を(ただ)し、将軍大夫は力を(つく)し事に従うも、未だ(おのれ)()(しかる)(ただ)すことを為すを得ず、三公諸侯有りて之を政す、三公諸侯は力を(つく)()を聴くも、未だ(おのれ)()(しかる)(ただ)すことを為すを得ず、天子有りて之を(ただ)す、天子は未だ(おのれ)()(しかる)(ただ)すことを為すを得ず、天有りて之を(ただ)す。天子は三公を(ただ)すことを為し、諸侯、士、庶人、天下の士君子は(もと)より明らかに知る、天は天子を(ただ)すことを為すも、天下の百姓は未だ之を明らかに知るを得ざるなり。故に昔の三代の聖王禹湯文武、以って天が天子を(ただ)すことを為すを欲し、明らかに天下の百姓を説き、故に牛羊(ぎゅうよう)()ひ、(けんてい)(やしな)ひ、(きよ)粢盛(しせい)酒醴(しゅれい)(つく)り、以って上帝鬼神を祭祀し、(しかる)(さいわい)を天に求祈(きゅうき)せざるは()し。(おのれ)の未だ嘗って天下の(さいわい)を天子に求祈(きゅうき)する所のものを聞かず、我の天が天子に(ただ)すことを為すを知る所以(ゆえん)のものなり。

故に天子は、天下の()(きわ)み、天下の()(きわ)みなり、故に富且つ貴は、當に天の()にして而して(したが)はざる可からず、天意に(したが)う者は、(けん)にして(あい)(あい)し、(こもご)(あい)()し、必ず(ほうび)を得む。天意に反する者は、(べつ)にして(あい)()し、交も(あい)(そこな)ひ、必ず(ばつ)を得む。然らば則ち是の誰か天意に順ひ(すなは)(ほうび)を得む。誰か天意に反して(すなは)(ばつ)を得む。子墨子の言いて曰く、昔の三代の聖王禹湯文武は、此の天意に順ひ(すで)(ほうび)を得る者なり。昔の三代の暴王桀紂幽厲は、此の天意に反し(すで)(ばつ)を得る者なり。然らば則ち禹湯文武の其の(ほうび)を得るは何を以ってか。子墨子の言いて曰く、其の上には天を(うやま)い、中には鬼神に(つか)へ、下には人を愛するを(こと)とすればなり、故に天意に曰く、此は之の(おのれ)の愛する所、(けん)をして(しかる)に之を愛し、(おのれ)の利する所、(けん)をして(しかる)に之を利する。人を愛するは此れを(ひろ)しと為し、人を利するは此れを厚しと為す。故に貴は天子となり、富は天下に有ら使()め、萬世の子孫に業の、其の善を傳稱(でんしょう)し、(いま)や天下に施し、今に至るまで之を稱し、之を聖王と謂う。然らば則ち桀紂幽厲は其の(ばつ)を得るは何を以ってや。子墨子の言いて曰く、其の上には天を(そし)り、中には鬼を(そし)り、下には人を(そこな)うことを事とすればなり、故に天意の曰く、此れ之の(おのれ)の愛す所は、別ちて(すなは)ち之を(にく)み、(おのれ)の利する所は、(こもご)(すで)に之を(そこな)ふ。人を(にく)む者は此れ之を(ひろ)しと為し、人を(そこな)ふ者は此れ之を厚しと為すなり。故に其の(じゅ)を終ふるを得ずして、其の世を歿()へざら使()め、今に至るまで之を(そし)りて、之を暴王と謂う。

然らば則ち何を以って天は天下の百姓を愛するを知る。其の(けん)をして(すなは)ち之を明らかにするを以ってなり。何を以って其の(けん)をして(すなは)ち之を明らかにするを知るや。其の(けん)をして(すなは)ち之を(たも)つを以ってす。何を以って其の(けん)をして(すなは)ち之を(たも)つと知るや。其の(けん)をして(すなは)(これ)()はすを以ってす。何を以って其の(けん)をして(すなは)(これ)()はすを知るや。四海の内、粒食(りゅうしょく)の民は、牛羊(ぎゅうよう)()ひ、(けんてい)(やしな)ひ、(きよ)粢盛(しせい)酒醴(しゅれい)(つく)り、以って上帝鬼神を祭祀せざるは()し、天に邑人(さとひと)は有りや、何を(もち)いて愛せざるはなしや。(すで)に吾は、一に不辜(ふこく)(ころ)す者は必ず一の不祥(ふしょう)は有りと言へり。不辜(ふこく)(ころ)す者は誰ぞや。則ち人なり。之の不祥(ふしょう)(ゆる)す者は誰ぞや。則ち天なり。()し天を以って天下の百姓を愛さずと為せば、則ち何の故に人と人とを(あい)(ころ)すを(ゆえ)に、(しかる)に天は之の不祥を(ゆる)さむや。此れ(おのれ)の天が天下の百姓を愛するを知る所以(ゆえん)なり。

天意に(したが)ふものは、()(せい)なり。天意に(そむ)くものは、(りき)(せい)なり。然らば義政は将に柰何(いかん)せむとするや。子墨子の言いて曰く、大國に()っては小國を攻めず、大家に()っては小家を(うば)はず、強は弱を(おびやか)さず、貴は賤に(おご)らず、()多きは愚を(あざむ)かず。此れ必ず上には天を利し、中には鬼を利し、下には人を利す、(さん)()の利せざる所は無し、故に天下の美名を挙げて之に加へ、之を聖王と謂へり。力政は則ち此れと異なり、(げん)は此れに(そむ)き、(こう)は此れに(そむ)き、(なお)倖馳(こうち)するがごとし。大國に()って小國を攻め、大家に()って小家を(うば)ひ、強は弱を(おびやか)し、貴は賤に(おご)り、()多きは愚を(あざむ)く。此れ上にあっては天を利せず、中にあっては鬼を利せず、下にあっては人を利せず。三の不利(ふり)は利する所無し、故に天下の悪名を挙げて之に加へ、之を暴王と謂う。

子墨子の言いて曰く、(おのれ)に天志有るは、譬へば(りん)なる人に()が有り、(しょう)なる人に()が有るが(ごと)く、輪匠(りんしょう)は其の規矩(きく)を執り、以って天下の方圓(ほうえん)(はか)る、曰く、(あた)るものは()なり、(あた)らざるものは()なり。今、天下の士君子の書、()げて載す可からず、言語は(ことごと)(はか)る可からず、上には諸侯に説き、下には列士を説く。其の仁義に於けるや、則ち大いに(あい)(とお)し。何を以って之を知るや。曰く、我の天下の明法(めいほう)を得て以って之を(はか)れり。

 

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