墨子 巻十二 貴義
《貴義》
子墨子曰、萬事莫貴於義。今謂人曰、予子冠履、而断子之手足、子為之乎。必不為、何故。則冠履不若手足之貴也。又曰、予子天下而殺子之身、子為之乎。必不為、何故。則天下不若身之貴也。争一言以相殺、是貴義於其身也。故曰、萬事莫貴於義也。
子墨子自魯即齊、過故人、謂子墨子曰、今天下莫為義、子獨自苦而為義、子不若已。子墨子曰、今有人於此、有子十人、一人耕而九人處、則耕者不可以不益急矣。何故。則食者衆、而耕者寡也。今天下莫為義、則子如勧我者也、何故止我。子墨子南游於楚、見楚献惠王、献惠王以老辭、使穆賀見子墨子。子墨子説穆賀、穆賀大説、謂子墨子曰、子之言則成善矣。而君王、天下之大王也、毋乃曰賤人之所為、而不用乎。子墨子曰、唯其可行。譬若薬然、天子食之以順其疾、豈曰一草之本而不食哉。今農夫入其税於大人、大人為酒醴粢盛以祭上帝鬼神、豈曰賤人之所為而不享哉。故雖賤人也、上比之農、下比之薬、曾不若一草之本乎。且主君亦嘗聞湯之説乎。昔者、湯将往見伊尹、令彭氏之子御。彭氏之子半道而問曰、君将何之。湯曰、将往見伊尹。彭氏之子曰、伊尹、天下之賤人也。若君欲見之、亦令召問焉、彼受賜矣。湯曰、非女所知也。今有薬此、食之則耳加聰、目加明、則吾必説而強食之。今夫伊尹之於我國也、譬之良医善薬也。而子不欲我見伊尹、是子不欲吾善也。因下彭氏之子、不使御。彼苟然、然後可也。
子墨子曰、凡言凡動、利於天鬼百姓者為之、凡言凡動、害於天鬼百姓者舍之、凡言凡動、合於三代聖王堯舜禹湯文武者為之、凡言凡動、合於三代暴王桀紂幽厲者舍之。
子墨子曰、言足以遷行者、常之、不足以遷行者、勿常。不足以遷行而常之、是蕩口也。
子墨子曰、必去六辟。嘿則思、言則誨、動則事、使三者代御、必為聖人。必去喜、去怒、去楽、去悲、去愛、而用仁義。手足口鼻耳、従事於義、必為聖人。
子墨子謂二三子曰、為義而不能、必無排其道。譬若匠人之斲而不能、無排其繩。
子墨子曰、世之君子、使之為一犬一彘之宰、不能則辭之、使為一國之相、不能而為之。豈不悖哉。
子墨子曰、今瞽曰、鉅者白也、黔者黒也。雖明目者無以易之。兼白黒、使瞽取焉、不能知也。故我曰瞽不知白黒者、非以其名也、以其取也。今天下之君子之名仁也、雖禹湯無以易之。兼仁與不仁、而使天下之君子取焉、不能知也。故我曰天下之君子不知仁者、非以其名也、亦以其取也。
子墨子曰、今士之用身、不若商人之用一布之慎也。商人用一布布、不敢継苟而讐焉、必擇良者。今士之用身則不然、意之所欲則為之、厚者入刑罰、薄者被毀醜、則士之用身不若商人之用一布之慎也。
子墨子曰、世之君子欲其義之成、而助之修其身則慍、是猶欲其牆之成、而人助之築則慍也、豈不悖哉。
子墨子曰、古之聖王、欲傳其道於後世、是故書之竹帛、鏤之金石、傳遺後世子孫、欲後世子孫法之也。今聞先王之遺而不為、是廃先王之傳也。
子墨子南遊使衛、関中載書甚多、弦唐子見而怪之、曰、吾夫子教公尚過曰、揣曲直而已。今夫子載書甚多、何有也。子墨子曰、昔者周公旦朝読書百篇、夕見漆十士。故周公旦佐相天子、其脩至於今。翟上無君上之事、下無耕農之難、吾安敢廃此。翟聞之、同歸之物、信有誤者。然而民聴不鈞、是以書多也。今若過之心者、數逆於精微、同歸之物、既已知其要矣、是以不教以書也。而子何怪焉。
子墨子謂公良桓子曰、衛、小國也、處於齊、晋之閒、猶貧家之處於富家之閒也。貧家而学富家之衣食多用、則速亡必矣。今簡子之家、飾車數百乗、馬食菽粟者數百匹、婦人衣文繡者數百人、吾取飾車、食馬之費、與繡衣之財以畜士、必千人有餘。若有患難、則使百人處於前、數百於後、與婦人數百人處前後、孰安。吾以為不若畜士之安也。
子墨子仕人於衛、所仕者至而反。子墨子曰、何故反。對曰、與我言而不當。曰待女以千盆、授我五百盆。故去之也。子墨子曰、授子過千盆、則子去之乎。對曰、不去。子墨子曰、然則、非為其不審也、為其寡也。
子墨子曰、世俗之君子、視義士不若負粟者。今有人於此、負粟息於路側、欲起而不能、君子見之、無長少貴賤、必起之。何故也。曰義也。今為義之君子、奉承先王之道以語之、縦不説而行、又従而非毀之。則是世俗之君子之視義士也、不若視負粟者也。
子墨子曰、商人之四方、市賈信徙、雖有関梁之難、盜賊之危、必為之。今士坐而言義、無関梁之難、盜賊之危、此為信徙、不可勝計、然而不為。則士之計利不若商人之察也。
子墨子北之齊、遇日者。日者曰、帝以今日殺黒龍於北方、而先生之色黒、不可以北。子墨子不聴、遂北、至淄水、不遂而反焉。日者曰、我謂先生不可以北。子墨子曰、南之人不得北、北之人不得南、其色有黒者有白者、何故皆不遂也。且帝以甲乙殺青龍於東方、以丙丁殺赤龍於南方、以庚辛殺白龍於西方、以壬癸殺黒龍於北方、若用子之言、則是禁天下之行者也。是圍心而虛天下也、子之言不可用也。
子墨子曰、吾言足用矣、舍言革思者、是猶舍穫而拾粟也。以其言非吾言者、是猶以卵投石也、盡天下之卵、其石猶是也、不可毀也。
字典を使用するときに注意すべき文字
舎、息なり。 やすむ、やめる、の意あり。
讐、詩賈用不讐 あきない、の意あり。
漆、又物之黑者曰漆。 くろい、ひにやける、の意あり。
心、本也。 もと、の意あり。
鉅、大剛也。 言葉の背景に、五説での金属は白。の意あり。
敢、進取也、勇也。 すすみて、いさみて、の意あり。
継、継之者,善也。 よい、の意あり。
審、又正也。 ただしい、の意あり。
遂、又竟也、又盡也。 おえる、とげる、の意あり。
《貴義》
子墨子の曰く、萬事は義より貴きは莫し。今、人に謂いて曰く、子に冠履を予えて、而して子の手足を断つを、子は之を為すか。必ず為さず、何の故ぞ。則ち冠履は手足の貴きに若かずなり。又曰く、予は子に天下を予えて而して子の身を殺すを、子は之を為すか。必ず為さず、何の故ぞ。則ち天下は身の貴きに若かずなり。一言を争い以って相殺すは、是は其の身より義を貴べばなり。故に曰く、萬事は義に貴きは莫しなり。
子墨子の魯自り齊に即き、故ある人を過る、子墨子に謂いて曰く、今、天下に義を為すや莫しや、子は獨り自ら苦しみて而して義を為す、子は已むに若かず。子墨子の曰く、今、此に人有り、子は十人有り、一人が耕して而して九人が處らば、則ち耕す者は以って益す急ならざる可からず。何の故ぞ。則ち食ふ者が衆くして、而して耕す者は寡ければなり。今、天下に義を為すは莫しや、則ち子は如しく我に勧めるべき者なり、何の故に我を止どめむ。
子墨子は南の楚に游び、楚の献惠王に見えむ、献惠王は老を以って辭し、穆賀をして子墨子に見え使しむ。子墨子は穆賀に説くに、穆賀は大いに説たり、子墨子に謂いて曰く、子の言則ち成に善きかな。而るに君王は、天下の大王なり、乃ち曰く賤人の為す所、而して用ひざるは毋からむか。子墨子の曰く、唯だ其を行う可き。譬へば薬の然るが若し、天子は之を食うを以って其の疾に順う、豈に曰く一草の本而して食せざらむや。今、農夫は其の税を大人に入れ、大人は酒醴粢盛を為し以って上帝鬼神を祭る、豈に曰く賤人の為す所にして而して享けざらむや。故に賤人と雖も、上には之を農に比し、下には之を薬と比し、曾ち一草の本に若かざらむや。且た主君も亦た嘗て湯の説を聞けるか。昔は、湯は将に往きて伊尹を見えむとして、彭氏の子をして御たら令む。彭氏の子は道の半ばにして而して問いて曰く、君は将に何くに之かむとす。湯の曰く、将に往きて伊尹に見えむ。彭氏の子の曰く、伊尹、天下の賤人なり。若し君の之に見えむを欲せば、亦た召問せし令めよ、彼の賜を受けむ。湯の曰く、女の知る所に非ざるなり。今、此に薬有り、之を食ふば則ち耳は聰を加え、目は明を加ふ、則ち吾は必ず説びて而して之を食ふを強めむ。今、夫れ伊尹の我が國に於けるや、之を譬へば良医善薬なり。而して子は我が伊尹に見えむを欲せざるか、是は子は吾が善を欲せざるか。因って彭氏の子を下し、御たら使めず。彼は苟に然り、然る後に可なり。
子墨子の曰く、凡そ言凡そ動、天鬼百姓に利ある者は之を為し、凡そ言凡そ動、天鬼百姓に害ある者は之を舍く、凡そ言凡そ動、三代の聖王堯舜禹湯文武に合する者は之を為し、凡そ言凡そ動、三代の暴王桀紂幽厲に合する者は之を舍く。
子墨子の曰く、言の以って行を遷すに足る者は、之を常とし、以って行を遷すに足らざる者は、常にすること勿し。以って行を遷すに足らずして而して之を常とするは、是は蕩口なり。
子墨子の曰く、必ず六辟を去り。嘿すれば則ち思ひ、言へば則ち誨ひ、動かば則ち事あり、三者をして代して御せし使むれば、必ず聖人と為らむ。必ず喜を去り、怒を去り、楽を去り、悲を去り、愛を去り、而して仁義を用うる。手足口鼻耳の、義に従事すば、必ず聖人に為らむ。
子墨子の二三子に謂いて曰く、義を為し而して能はざるも、必ず其の道を排するは無かれ。譬へば匠人の斲りて而して能はざるも、其の繩を排するは無きが若し。
子墨子の曰く、世の君子、之をして一犬一彘の宰に為ら使むれば、能はざれば則ち之を辭す、一國の相に為ら使むれば、能はざれども而して之を為す。豈に悖らずや。
子墨子の曰く、今、瞽の曰く、鉅なるものは白なり、黔は黒なり。明目のものと雖も以って之を易えるは無し。白黒を兼ね、瞽をして焉を取ら使むれも、知る能はずなり。故に我の瞽は白黒を知らずと曰うは、其の名を以ってに非ずなり、其を取るを以ってなり。今、天下の君子の仁と名するや、禹湯と雖も以って之を易えるは無し。仁と不仁とを兼ね、而して天下の君子をして焉を取ら使むれば、知るを能はずなり。故に我の天下の君子の仁を知らずと曰うは、其の名するを以ってに非ずなり、亦た其を取るを以ってなり。
子墨子の曰く、今、士の身を用いるは、商人の一布を用いるの慎しむに若かざるなり。商人の一布の布を用い、敢みて継からずものは苟も而た讐せず、必ず良きものを擇ぶ。今、士の身を用いるは則ち然からず、意の欲っする所は則ち之を為し、厚き者は刑罰に入り、薄き者は毀醜を被る、則ち士の身を用いるは商人の一布を用いるを慎しむ若きにしかずなり。
子墨子の曰く、世の君子の其の義の成らむことを欲し、而して之を助けて其の身に修めしむれば則ち慍む、是は猶其の牆の成らむを欲し、而して人の之を助け築けば則ち慍むなり、豈に悖らずや。
子墨子の曰く、古の聖王は、其の道を後世に傳へむと欲す、是の故に竹帛に書き、之を金石に鏤し、後世の子孫に遺し傳へ、後世の子孫が之に法らむを欲すなり。今、先王の遺すを聞くも而に為さず、是は先王の傳を廃すなり。
子墨子は南遊して衛に使す、関中に書を載すること甚だ多し、弦唐子は見て而に之を怪しみ、曰く、吾が夫子は公尚過に教えて曰く、曲直を揣るのみと。今、夫子の書を載すること甚だ多し、何ぞ有らむや。子墨子の曰く、昔の周公旦は朝に書百篇を読み、夕に漆の十士を見る。故に周公旦は天子を佐相し、其の脩は今に至る。翟は上には君上の事無く、下には耕農の難無し、吾は安くんぞ敢て此を廃せんや。翟は之を聞き、同歸の物も、信の誤まるもの有り。然り而して民聴は鈞しからず、是をもって書は多きなり。今、過の心の若きは、數精微に逆ふ、同歸の物は、既已に其の要を知れり、是を以って教ふるに書を以ってせざるなり。而して子は何ぞ怪まむや。
子墨子は公良桓子に謂いて曰く、衛は小國なり、齊、晋の閒に處るは、猶貧家の富家の閒に處るごとき。貧家の而して富家の衣食の多用を学べば、則ち速かに亡ぶは必ずなり。今、子の家を簡るに、飾車は數百乗、馬の菽粟を食ふは數百匹、婦人の文繡を衣るは數百人、吾は飾車を取り、食馬の費と繡衣の財を以って士を畜はば、必ず千人有餘ならむ。若し患難有りて、則ち百人をして前に處らしめ、數百をして後に使しむと、婦人數百人の前後に處ると、孰くんぞ安きならむ。吾は為を以って士を畜ふの安きに若かず。
子墨子は衛に人を仕へしむ、仕ふる所の者の至りて而して反る。子墨子の曰く、何の故に反る。對へて曰く、我と言いて而に當らず。曰く、女を待すに千盆を以ってせむも、我に五百盆を授く。故に之を去るなり。子墨子の曰く、子に授くに千盆を過ぐれば、則ち子は之を去るや。對へて曰く、去らず。子墨子の曰く、然らば則ち、其の審からざるが為に非ず、其の寡きが為なり。
子墨子の曰く、世俗の君子は、義士を視ること粟を負ふ者に若かず。今、北に人有り、粟を負ひ路側に息む、起つを欲し而に能はず、君子の之を見み、長少貴賤と無く、必ず之を起たしむ。何の故なり。曰く義なり。今、義を為すの君子、先王の道を奉承して以って之を語り、縦へ説かずも而に行ふ、又た従いて而に之を毀るに非ず。則ち是は世俗の君子の義士を視るや、粟を負ふ者を視るに若からずなり。
子墨子の曰く、商人の四方に之けば、市賈は信徙す、関梁の難、盜賊の危の有ると雖ども、必ず之を為す。今、士は坐して而して義を言う、関梁の難、盜賊の危は無く、此れ信徙を為すこと、勝げて計る可からず、然り而して為さず。則ち士の利を計るは商人の察なるに若かざるなり。
子墨子は北の齊に之き、日者に偶う。日者の曰く、帝は今日を以って北方に黒龍を殺せり、而して先生の色は黒し、以って北す可からず。子墨子は聴かず、遂に北して、淄水に至るも、遂せずして而に反る。日者は曰く、我は先生に以って北す可からずと謂へり。子墨子の曰く、南の人は北するを得ず、北の人は南するを得ず、其の色の黒き者有り、白き者有り、何ぞ故に皆遂せざるや。且た帝の甲乙を以って東方に青龍を殺し、丙丁を以って南方に赤龍を殺し、庚辛を以って西方に白龍を殺し、壬癸を以って北方に黒龍を殺す、若し子の言を用ふれば、則ち是は天下の行くを禁ずるなり。是は心を圍みて而に天下を虚しくするなり、子の言は用る可からずなり。
子墨子の曰く、吾の言は用ふるに足る、言を舍て思を革むるは、是は猶穫を舍て而に粟を拾うなり。其の言を以って吾の言を非しるは、是は猶卵を以って投石を投ずるがごとし、天下の卵を盡すも、其の石は猶是のごとし、毀つ可からざるなり。
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